①研究者の関心を社会課題に向かせられるかいう点に関する質問です。気候変動への取り組みは,我々が今日直面する最大の政策課題であり,経済的側面については,経済成長論,公共経済学,国際経済学,環境経済学という分野が取り上げています。しかし,依然として「マクロ・ミクロ経済理論」の主要な概念枠組みにおいては,主要概念になっていないことが指摘されています。例えば,主要経済学術誌において,気候変動関連の研究論文はほとんど掲載されずにいるとの指摘があります(※1)。その理由をご説明ください。
※1 経済産業研究所 「経済学者はなぜ気候変動問題で世界を失望させているのか?」へ
「主要経済学術誌では,気候変動関連の研究論文はほとんど掲載されない」というOswald and Stern論文の指摘は学術データベースWeb of Scienceにもとづいていて, 客観性があると考えられます。問題のQJEなど9雑誌は, 査読の過程で, 多くの投稿論文を掲載不可としているはずで, その中に気候変動関連論文がどのくらい含まれていたかが分かると各雑誌の編集方針も分かりOswald and Sternの主張が補強されるはずですが, そうしたデータが公表されることは期待できません。
気候変化(climate change)が経済理論の主要なテーマになるかという点につきましては,「二酸化炭素排出」は, 経済理論では伝統的に「外部不経済」の一つの例として分類され,市場の価格調整(市場均衡)では望ましい需給均衡が達成できないケースとみなされています。外部不経済は, 生産や消費において個人や私企業が負担する費用と,社会が負担する費用が乖離するケースで, イギリスの経済学者A. C. Pigueが1920年代に導入した概念です[1]。つまり市場が失敗するケースとなります。そのため,たとえば,CO2排出量の調整は炭素税や排出権取引などの「公共的介入」が必要となり, 理論的分析には市場均衡論ではなく「ゲーム理論」などが有用となります。しかしながらPigueによる外部不経済の分析方法が有用であるのは, あくまで孤立した個別事象として因果関係が明確に結びつけられるケースへの対応としてであります。
「社会的費用の問題がもっと経済理論の中心テーマになってしかるべきではないか」につきましては, 単にアカデミックな関心の偏りの問題であるばかりでなく, 個人費用として直接個人が直面しない「社会的費用」の問題に,いかに一般の人々の関心を向けさせ, 関わらせるかに関わってきます。伝統的に経済学は, 合理的個人行動から経済社会が説明できる領域に研究関心を集中してきました。「二酸化炭素排出」や「森林伐採」とその結果としての気候の変化は, 原因が経済活動であるにも関わらす。原因(個々の経済主体の活動)と結果(地球全体の温暖化)との関係(とくにその定量的関係)があいまいで不確実です。そのため個人の意識にものぼりにくい問題です。しかし、人類の未来が懸かっている最も深刻なこの経済問題に対する有効な政策や制度設計の立案を, 分野を超えて取り組むことが, 現在, もとめられています。
[1] ピグー知識と実践の厚生経済学,アーサー・C・ピグー著; 高見典和訳,ミネルヴァ書房,2015.5
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:細谷雄三(東北大学名誉教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
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②人間の欲望に関する質問です。雑誌「世界」2021年2月号の135ページに「自由と平等のサピエンス氏」(三宅芳夫)の論文が掲載されました。注目するのは,149ページからの,「無限を前提とする資本主義と有限な地球生態系」という部分です。その中で,「投資家は,資本が複利的に利潤を生みだすことを期待している」という記述があります。例えば,政府もよく掲げる「年2%(=前年比1.02倍)の成長」というように。そうした複利的な人間の欲望が,本当であれば,それは,定常化した生態系しかもたない地球環境では,その人間の無限の欲望を満たすことができないことは自明,という内容です。今世紀に入ってからは,日本では人口が減少しています。結局,今後は,こうした人の欲望を抑えるため,「足るを知る」ことが重要となるのかもしれません。こうした点について,経済的視点から解説してください。
「自由,平等あるいは民主主義は, 人類史のなかで, ほんのつかの間, たまに姿をあらわす奇跡的な現象であった, そして現代においても, 変わることはない」という, 著者の主張には共感できるところがあります。
日本の高度経済成長政策の推進者は池田勇人首相であり, その経済ブレインは下村治氏でした。日本の所得倍増計画のmaster mindであった下村氏は(非アカデミックな)ケインジアンであり, 宇沢弘文氏は彼にノーベル賞が授与されないのはおかしいと主張して研究者として高く評価していました。興味深いことに1970年代になると,下村治は突然「ゼロ成長論者」に転向しました。その理由は明確ではありません。以前, 日本経済論の中村隆英氏と話した折, この点についてご存知かと尋ねましたが, 分からないとのことでした。少なくとも下村治は, これ以上, 日本が経済成長を追求することは正しくないという考えであったことは確かです。他方, 当時はまだ, 大方の日本人が日本経済の右肩上がりを当りまえと考えていました。
資本主義経済は, 歴史的にごく最近まで, およそ第二次世界大戦前まで、その外部にいくらでも開発できる自然資源、人的資源、土地が広がっていることを大前提として発展してきました。資本主義社会が限りなく成長するという考えもこの長い歴史的経験の影響を受けていることは間違いないでしょう。にも関わらず, 他方経済理論はしばしば資本主義経済を自立したシステムとしてしてモデル化してきました。「限定された地球生態系」が常識となったのはごく最近のことです。地球温暖化が人間の経済活動に由来することを経済学者が認識するようになったのは, やっと1980年代に入ってからです。
自然科学と同様に, 経済学も経済の知見を得るため, しばしば, 抽象化=単純化(数学モデル化)をおこないます。数学的取り扱いを容易にするための代表的な手続きは, 有限を無限で, 離散を連続概念で置き換えることです。なかでも最大の抽象化は, 経済活動の参加者は経済現象にしか関心がないという単純化です。そうした単純化の過程で, たとえば, 企業の将来の収益の流れが無限に続き企業価値は将来のキャッシュフローを利子率で割り引いた現在価値として評価されます。競争を可能にする無限に多くの経済主体が存在する, 市場参加者は無限の将来を合理的に予見できるといった仮定をします。有限な世界による経済主体への制約(特定の歴史的制約や地政学的制約, 社会関係の制約など)は, 理論モデルでは通常無視されます。人間関係は純粋な市場関係に還元されます。経済論議の根本的な問題は, 非常に単純化されたモデルから得られる結論が真理であるとして現実の経済政策や経済制度設計に(歴史的制約や地政学的制約を考慮せずに)直接的に適用されることにあります。
三宅論文の「ゼロ成長経済と資本主義は両立するか」につきましては、経済成長率と利潤率を混同していると思われます。資本家に関心があるのは利潤(率)です。ゼロ成長でも資本家が正の利潤率を稼ぐことは可能です。そのかわり、労働分配率は低下するでしょうが。また「有限資源の環境で, 複利的拡大経済が持続可能か」につきましては, 科学技術の革新が生産の物的制約をうまく突破してくれるように働けば, まったく不可能とは言えないと考えられます。しかし実際には, 市場の調整のみに任せれば, 個別の新しい科学技術は, それぞれ意図する狭い目的をたとえ達成するとしても, むしろ全体としておよぼす外部効果としては, 社会環境を悪化させてしまう傾向をもつことをすでにわれわれは経験してきています(地球温暖化がその代表例です)。大切な点は, 技術革新の採用は基本的に資本家の投資時の判断にゆだねられていることです。資本家は自分に不利な技術革新は採用しません。
マルクスは、資本主義社会では、累積する資本蓄積に見合って増大する利潤をいつまでも生みだし続けることは不可能であるため, 利潤率(そして利子率)は低下せざるを得ない, したがって, 資本主義は永続出来ないと考えていました。ただし, 物的制約を直接受けない金融資本の世界も含めて考えると, 想像力の取引を通じてバブルが拡大し続けることは可能かもしれません。現在, 日本の企業家は余った金を実物投資に使うのではなく,マネーゲームに投資することを好んでいます。
実物経済において, それが成長経済であっても定常経済であっても、技術進歩が資本の生産性を向上するように働けば, 利潤率が低下する必然性はありません。放っておけば利潤率が低下する状況では, 投資に関して主導権をもつ資本家は, 労働に有利な(労働の付加価値を高める)技術進歩より資本の限界生産性を引き上げる技術進歩を当然追求し, 採用するでしょう。その結果, 労働分配率が成長経済のなかにあっても減少することは十分にあり得ます。また, 環境制約の状況で,利潤率が低下するぐらいなら, 地球環境の悪化の方がましであるとする主張がわき上がることも想像に難くありません。
いずれにしても、単純化したモデルと仮定から実経済全体の振る舞いをあれこれ予測したり決めつけたりすることは, あまり意味があるとは思えません。現実の経済は人々の複雑な活動と相互関係の結果です。マルクスは現代と比較すると比較にならないくらい乏しいデータにもとづいて推論する必要がありました。ちなみに, 近年の日本における経済成長と労働分配率の推移の様子につきましては、厚生労働省のホームページ[2]と内閣府経済社会総合研究所のホームページ[3]などから知ることができます。国際比較すると日本の労働分配率は低く、また経済成長はとくに近年ひどく低迷しています。
[2] https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/18/backdata/1-1-05.html, 2021.2
[3]
https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/sokuhou/gaiyou/pdf/main_1.pdf, 2021.2
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:細谷雄三(東北大学名誉教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
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③経済に関する質問です。勤労者の給与のベースアップはなぜ必要なのでしょうか,それが線形に上がっていくのであればよいでしょうが,年何%かというように上がる場合は,給与は指数関数的に上がることになり,結局,環境には大きな負担になると危惧されます。
ベースアップは顕著な実質経済成長が見込まれる場合,あるいは物価が上昇する経済環境において,それに見合った従業員賃金水準を確保するため,被雇用者全員の賃上げを行うことがベースアップです。通常は現行の賃金水準の違いで不公平が生じないように,定額で一律に昇給するより,3パーセントとか5パーセント一律に上げることが普通です。これに対して定期昇給は在任期間や地位の異動にともなう昇給であり,勤務成績の評価に応じて異なる昇給額が定まります。賃金水準につきましては,下方硬直性があることが古くから知られています。一度上がってしまった賃金を下げることが困難であるため,経営側としてはベースアップに対しては抵抗があり,賞与など一時金の給付を選好する傾向があります。公務員給与水準は,標本抽出された民間企業の対応する職種や地位の給与が平均的に公務員のそれに等しくなるように年々の上昇・下降率が決められます。
1990年以前の,インフレーションが常態であった時期や,右肩上がりの経済成長が見込まれた時期の日本では,賃金が指数関数的に上がることがありましたが,近年の日本では例外的です。むしろ賃金水準が低迷しているため,デフレーションから脱出したい政府が大企業に対してベースアップを促すといった官制の賃上げ政策が2016年,17年ごろに見られるくらいです。
賃金上昇が環境悪化につながるかという問題は「経済と倫理の問題」に属します。経済を市場機能と個人の自由選択に任せていると,環境が悪化することはこれまでの経済の歴史が示しているところです。市場には環境保全の機能はありません。一般に,経済開発の水準が低い段階では,消費・生産水準が低く,環境を配慮する余裕がなかなか生まれません。そこでは環境負荷が高い経済諸活動が行われる傾向にあります。しかし経済力が十分に高い水準にある現代の先進諸国においては,消費者や生産者それぞれが高い環境保護意識をもち,公的に適切な制度設計が行われれば,経済成長と地球環境保全の両立は可能です。このために環境保護に関する国際条約や国内法令を今後さらに充実させてゆく必要があります。環境を悪化させる経済活動を抑制する制度としましては、炭素税など環境税(ピグー税)があります。自然と人間の持続可能な共生を可能にするため,人々の意識改革と平行して,税制や補助金を活用して生産と消費の技術革新を誘導することが現実的な方法です。
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:細谷雄三(東北大学名誉教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
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④経済に関する質問です。政府が,物価を上げること(インフレーション)を目指すのはどういう理由からでしょうか。(国立大学への配分される運営費交付金は,額が決まっているため,実質目減りする可能性があります。)
経験データに「インフレーションと失業率の間に一定の従属性(低いインフレ率と高い失業率が対応する)」が観測されるという経験則が長く指摘されてきました。労働力雇用水準が高い好景気の時期には,貨幣賃金の上昇しやすさが対応しているというものです。高い賃金水準には高い財サービス需要が対応します。この関係をマクロ経済学では「フィリップス曲線」とよんでいます([1])。いつでも成立する関係ではなく,1970年代オイルショック以降,高いインフレ率と高い失業率の併存が多くの国で観測されました。逆に,最近の2010年代後期では,失業率が低下しているにも関わらず貨幣賃金が上昇しない状態が米国を含む先進国で観測されています。余談になりますが,フィリップス曲線を発見したフィリップス(A.W. Phillips)はニュージーランド生まれロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で研究生活を送った計量経済学者ですが,その短い研究者生活のうちに僅かな数の論文しか書いていません。しかし論文[1]がマクロ経済学に与えた影響は大きく,マクロ経済学で最も引用される研究者の一人です。彼の研究履歴は,研究者の業績を論文の数で計る昨今の風潮に反省を与えます。
2010年代に安倍政権が経済政策の一つに2パーセントのインフレ目標を設定した背景には,デフレを脱して適度のインフレと景気刺激が同時並行する経済環境を作りたかったことがあります。そうした環境のなかで技術革新にもとづく経済成長を推進することを目指していたと推測されます。もともとインフレ目標は,放っておけばインフレ-ションが進行してしまう欧米諸国の政府が,経済を混乱させないため,あらかじめ,2,3%という水準を目標として財政金融政策を行うことを公表するものでした。日本政府のように物価上昇率を高めることを約束するのは例外的です。インフレ2パーセント目標の妥当性は別としても,利子率操作を行う余地を残すためにも,政府は適度のインフレを望んでいます。中央銀行である日本銀行による利子率操作は、大きくは,マネタリーベース(流通現金+日銀当座預金)の調整による基準貸付利率(公定歩合)の操作と,国債の売買による長期利子率の操作があります[2]。現在国債を大量保有している日本銀行に利子率操作で出来ることは限られています。
現在の日本経済は物価上昇のない状況下にありますが,国立大学運営費交付金の総額が抑えられているなかで,もしインフレが進行すると大学にとって厳しい状況になります。国や地方公共団体にとって,年々の予算の各項目は賃金と同様に下方硬直の傾向があり,減額には抵抗があります。そうした中で,適度にインフレが進行することは,予算額が昨年どおりであることは自動的に財政支出の削減となります。インフレのメリット・デメリットを議論した最近の論文として[3]があります。
[1] Phillips,A.W.(1958).The Relation Between Unemployment and the Rate of Change of Money Wage Rates in the United Kingdom,1861–1957, Economica,283–299. (2021年3月)
[2] 日本銀行公表資料・広報活動, (2021年3月)
[3] 岩崎雄斗,武藤一郎,新谷元嗣 (2018)失われた賃金インフレ?賃金の下方硬直性と自然失業率の推計, No.18-J-4, 日銀リサーチラボ・シリーズ, (2021年3月)
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:細谷雄三(東北大学名誉教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
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⑤経済に関する質問です。日本の多くの企業では,評価・査定して給与を決めることが,1990年代後半から導入されましたが,果たして,これは一般の労働者のためになっているのでしょうか。役員の給与を法外に上げる根拠になっていないでしょうか。
定期昇給に際して,一律に賃金を上げるのではなく,「それぞれの従業員の上司が,決められた貢献度と上昇率にもとづいて,昇給率を決める方式」が民間・官庁で広く採用されています。個々の企業の賃金政策が妥当なものであるか否かは,決定された個々の昇給率を従業員に納得させられるかに依存します。企業間での労働者の移動がゆるやかであれば,他企業で同等な地位や職種でどのような賃金が払われているかは,各企業での賃金水準決定の重要な要因である同種同地位の労働について賃金が均等化する傾向を生みます。労働者の要求は労働組合を通して会社側に伝えられますが,管理職(中間管理職)職員は,たとえ賃金が低くても,労働組合員にはなれません。いずれにしろ,従業員の賃金水準は経営者が決めます。
経済学のテキストでは,「ある労働者の賃金は,競争的労働市場では,その限界生産性によって決まる」ことになっています。ある個人が会社に労働力として加わることにより,会社の生産にとって新たに追加的に生み出される付加価値が限界生産性です。この限界生産性が計測できる理想的な状況では,この賃金決定は妥当性をもちますが,それは例外です。こうした例外的な場合を除いて,現実の個別企業において,多様な異なる労働の協同から生み出される実際の付加価値のなかから個別の限界生産性を実データにもとづいて推定することは手に負えない課題です。日本の賃金データの実態は厚生労働省賃金構造基本調査[1]で知ることができます。
株式会社の役員はその企業の社員ではありません,役員はあくまで企業の利害関係を共有する資本家たちの代表であり,役員報酬の水準は,社員給与の決定とは独立に,株主総会で決まります。したがって従業員=労働者の賃金と役員報酬を同列に議論することはできません。日本では,一億円を超える役員報酬は公表が義務づけられています。米国の寡占企業の役員が巨額な報酬を得ていることは有名ですが,それを競争市場の限界生産性で説明することは妥当ではありません。互いの顔の見える,小集団利害関係者内の寡占的取引の話です。ある役員の報酬がいかに巨額であっても,株主の同意は得ています。その経営成果に,役員報酬が見合っている(つまり株主を満足させてくれている)と株主が認識していることを意味しています。賃金は経営者が決めますが,経営者(役員)の報酬は関係する資本家同士で決めます。
「1980年代以降,世界の自由市場経済圏において,資本家と労働者の間で,所得と資産の格差が拡大し続けていること」が現代経済の顕著な特徴です。第2次世界大戦後の社会民主主義的な福祉国家体制に代わり,先進諸国が新自由主義の経済思想(それ以前にもあったのですが)を採用した時期に対応しています。
労働者が経営参加する組織としては経営評議会 (labour-management council)方式が知られています。ドイツでは多くの大企業は株式会社が普通ですが,企業内には経営評議会が存在し,経営に労働者が発言できる制度が法制化されています。また監査役会にも労働者が参加します。
[1] https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/chinginkouzou.html, 2021年3月
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:細谷雄三(東北大学名誉教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
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⑥経済に関する質問です。「経済発展して収入を増やす,富を増やすこと」がしばしば政治の政策目標とされますが,国の経済成長は,なぜ必要なのでしょうか.人口増減に沿っていればいいのではないでしょうか.一人当たりの経済的収支が,毎年一定額,黒字であれば,いいのではないでしょうか.地球環境を考えれば,いつまでも経済発展することはできないのは自明ではないでしょうか.ジョン・スチュアート・ミルは『経済学原理』[1]で「定常状態」に備えることの必要性を説いています.その場合,どこに目標をおいて,「持続可能で心豊かな社会」を創造してゆくことができるでしょうか。
質問の「黒字」のかわりに,広い視野をもつ用語である所得とその関連概念で説明します.ヒックスは「価値と資本」[2]第14章において,所得を次のように説明しています:
「実務における所得計算の目的は,人々に貧しくなることがなくどのくらい消費できるかの指針を示すことにある.この考えに従うと,一人の人の所得とは,週末において週初めと同じ裕福さが期待できる,一週間に消費が出来る最大値として定義すべきであると思える.したがって,人が貯蓄するとき,その人は将来一層豊かになろうと計画している.所得を超えて生活するとき,貧しくなることを予定している.所得という概念の実際の目的は慎重な行動のための指針として役立つことにある.これが,中心的な意味でなければならないことは,明確である.」
経済学における所得概念の規範的=倫理的役割を述べた文章で,ここに所得,消費,貯蓄が関連づけられています.経済学諸概念の定義にヒックスは,「経済主体が健全な行動をとるための規範的役割を期待していたこと」が分かります.ただし,気候危機や環境劣化といった外部性の問題に対応できる定義へと拡張する必要があります.
経済成長は,通常,年間付加価値生産量(GDP)で計られます.この概念は名目と実質で定義されますが,インフレ率を割り引いた実質で議論することにします.また,人口増減と経済成長には相互依存関係にありますが,単純化のため,人口増減は無視できると仮定してみます.あるいは一人当たりGDPを考えてもよいでしょう.生産された付加価値量は消費と投資に支出されます.人口は生産に対しては労働力として貢献し,支出面では消費を支えます.需給均衡では貯蓄=生産―消費=投資の関係が成立しています.質問の「毎年一定額黒字であればよいのではないか」は,一定の(一人当たり)貯蓄が確保できればよいと言い換えてよいでしょう.生産額,資本ストック,労働力,投資量,貯蓄量,利子率といった基本的な経済変数の間の関係を維持しながら,経済が持続可能な成長をしてゆく様相については,ラムジー[3],ソロー[4]などの古典的な研究があり,とくにソローは技術革新の効果を考察しました.モデル化に際しては,実物資本や労働力の,需要に応じた,異なる用途への(時間の遅れを伴わない)完全順応性を仮定して議論を単純化しています.消費によってもたらされる効用を経時的に最大化する経済成長とはなにかという理論的関心がすべてであり,現実の経時的成長の様相の分析やその予測を目指したモデルにはなっていません.後者の目的のためには,多部門産業連関の経験的経時変動を定量化してあつかうデータ解析が必要となります.
ジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』が出版されたのは1848年で,英国と清国の間のアヘン戦争が終結してから5年後,ペリーが浦賀に来航する5年前ですが,すでに,ミルは資本主義経済の行く末に思いを馳せ,このまま成長が続くはずはないと考えていました.同書第4巻第6章のタイトルは「定常状態について」であり,さらに同章は,
第1節 「識者たちによって恐れられ,忌避される定常状態」,
第2節 「しかし,それ自体は好ましくないとは言えない」
から構成されています.この第6章においてミルは,とくに望ましい状態として定常状態 (stationary state)を想定している訳でなく,当時の経済学者の多くが,成長経済を正常な状態と受け止めていることを批判して,「いつまでも成長をあてにすることはできない」との意見を表明しました.「定常経済であっても生活してゆけるように備えなければならないこと」を警告した章です.政府の経済政策が経済成長に関心を集中させることによって,諸課題を先延ばしすることの問題は,19世紀の当時より現代において一層深刻です.同章においてミルはこう述べています.
「資本と人口の定常条件が,人類の向上が定常状態にあることを意味しないことは言うまでも無いことである.定常状態において,なんとか切り抜けることだけに心を奪われていることをやめても,これまで通り,あらゆる種類の精神文化と道徳・社会進歩の大いなる機会があり,また生活技法の改善にも大きな余地があるでしょう.産業技術の改良でさえも.真剣に取り組まれ,成功するでしょう.しかし,一つ違いがあります.産業技術の改良が富の増加だけを目的として用いられるかわりに,産業技術の改良は,労働を軽減するという正当な効果を生むことになる.」
技術進歩が労働環境を改善するという楽観は,マルクスやケインズにも見られます.技術の革新は,現実には,労働コストの削減のためこれまでの生産過程から人間を排除します.こうして賃金獲得しか生存手段がない労働者は,生きがいのない労働に従事することを強いられるか,失業するかが,技術がもたらした賃労働との関係の顕著な特徴です.「技術革新と人間の生きがいの両立」が,現在にいたるまで,未解決の大きな課題です.
質問は,「消費を果てしなく拡大すること」を人間社会の目標とするのは正しくないのではないかと主張します.消費を拡大することなく,したがってそれによって生じる人々の不満に抗して,いかにして経済を持続させるかは決して簡単な問題ではありません.所得とそのうちの貯蓄額,あるいはその比率がどの程度であればよいか,またそれを実現するには,国民の生計や政府の財政がどう運営されればよいかが問われます.GDPの無視できない構成部分が政府支出(現代日本の場合は政府赤字)であることを忘れてはいけません.この意味から,将来を見据えて,経済成長率の中身を精査する必要があります.
経済成長の意味は経済先進国と途上国では事情が異なります.途上国は,雇用環境,インフラや治安,医療環境を改善する余地がまだ大いにあり,そのための生産水準の高成長が求められます.しかも,世界人口に占める途上国人口の割合はむしろ上昇傾向にあります.先進国においても,気候温暖化防止を含む環境諸問題に対応するために,投資増が必要とされ,このためにも,消費支出はただ従来の水準を維持するだけであっても,経済成長は必要とされます.
経済成長の優先は,しばしば,工業化・情報化による製品の大量生産と大量消費と消費の規格化・単純化を伴いますが,これにかわって,生活の質の改善と深化という面から生産と消費の関係全般を考え直すことが求められます.GDPには市場で価値が評価される財やサービスの生産のみが計上されます.人々が日常的に行っていて,生活を構成している家庭内労働,料理や子供たちの育児・教育,市場での価値評価を経ない社会諸活動やボランタリー活動や文化・芸術活動など多様で多彩な人間活動はGDPに含まれません.GDPやその成長のみに目を向けるのではなく,人々が自分の生活をいかにして取り戻してゆけばよいかという基本的な問いを合わせて考えるためには,「市場価値で計れない人間活動を測定することのできる指標」を導入して,GDPと合わせて参照することも必要です.
[1] Mill, J.S. (1848). Principles of Political Economy: with Some Applications to Social Philosophy, John W. Parker and Son, London.
[2] Hicks, J.R. (1975). Value and capital : an inquiry into some fundamental principles of economic theory, 2nd ed., Oxford University Pres. 原著初版は1939年.
[3] Ramsey, F.P, (1928). A mathematical theory of saving, Economic Journal, 38, 543-559.
[4] Solow, R. (1956). A contribution to the theory of economic growth, Quarterly Journal of Economic Growth, 70, 65-94.
最近までの成長理論を展望した論文としては,
[5] 平田渉 (2012). 人口成長と経済成長: 経済成長理論からのレッスン, 日本銀行金融研究所金融研究,第31巻第2号.
が関係文献を簡潔にまとめています.
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:細谷雄三(東北大学名誉教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
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⑦経済に関する質問です。資本政策として短期的株式売買を採用しない企業や,株主への安定的な配当を確保するといった株式政策を進める企業を奨励する制度を導入してはどうでしょうか.
宮崎義一は著書「複合不況」([1])のなかで,「1989年当時,世界全体の外為市場の取引高総計は162兆ドルとなり,実需取引額5兆ドルと比較すると32倍に達する」(p.11)と記し,財・サービスといった実物の取引額とは比較にならない膨大な金融取引が実行されている今日の特異な事態をいち早く指摘しました.また同氏は日本の赤字国債発行に対しても,まだその残高が低かった早い時点で,国債依存財政の危険性を指摘した論者でもありました.
現在世界では,AI,情報理技術,ファイナンス確率論を用いて,大量急速に(高頻度,high-frequency)金融取引が行われています.金融取引はもともと実業に必要な資金を効率的に配分する仲介的な役割を演じていましたが,貨幣を含む金融資産取引で生まれる利潤の追求が自己目的化して取引を繰り返す傾向が,金融の自由化以降,顕著に拡大しました.しかし学術研究においては,ファイナンス分野は,資金運用で利益を上げることに寄り添って,金融取引の膨張がもたらす社会的弊害については無関心です.
この「株の売買に制限を加えることができないのでしょうか」という質問に関連して,J.M.ケインズが1936年の著書[2]の第12章「長期期待の様相」第5節のなかで,この問題にすでに言及しています.資金を投入して事業を起こすとき,企業家は長期の事業のなかで生み出される収益を予測していますが,投機家は市場で人々が何を予測しているかを予測することに関心があり,両者は全く違う予想をしているとケインズは指摘します.ケインズ自身は,投機を結婚と比較しています.ある事業に株式投資することを結婚に例えると,なにが問題かがはっきりします.投機が結婚のように余程のことがなければ離婚できなければ,投資バブルは起きないのではないかと言います.現在では離婚が比較的に容易になりましたが,それでもかなりのコストがかかります.そのコストが社会での男女関係,ひいては,社会の人間関係を安定化しています.
「淀みに浮かぶ〈うたかた〉は,かつ消えかつ結びて,久しくとどまりたる試しなし.」 経済活動を川の流れに例えると,川の通常の流れの中で,投機が絶え間なくあちこちで〈うたかた〉を結び,それがはじけても,それは問題ではないとケインズは主張します.問題にすべきなのは,金融投機によって川に渦が生まれ,実物の経済活動を志向している企業家たちがその渦に巻き込まれ,〈うたかた〉としてはじけて消えてゆくことであると述べています.
その後,ジェームズ・トービンは,通貨取引に課税することを提言しました [3](トービンはハーバード大学でシュンペーターの学生の一人でした).この提言は,第2次世界大戦後成立していたブレトンウッズ体制が崩壊して,ドルが金とのリンクを離脱し,為替取引の自由化が進行する時期になされました.この課税はトービン税と呼ばれています.このトービン税を金融取引一般に拡張すると金融取引税になります.この税を適切に運用すれば,質問にありますように,高頻度取引を抑制し,株式を長期保有し配当収益を選択させるよう誘導することができます.しかし金融取引税は散発的に導入されることがあっても,国際的に定着した制度とはなっていません.
こうした金融取引制度導入の困難は高所得者に対する増税の困難と似ています.中流階級以下の人々から見れば,国の税収が足りなければ富裕層から取ればよさそうですが,資本家,企業家,レント(不動産・情報プラットフォームなど)の所有者といった富裕層はそれを回避できます.国内では,議会や行政やメディアで自分たちの利益を代弁してくれる勢力を応援し,法制度を導入し,その適用・不適用を決める司法を動かす圧倒的な力を持っています.不公正な市場競争を防止するために反トラスト法や独禁法が存在していても,発動されなければ意味をもちません.さらに,グローバル政治のなかでは,税回避のための手段を見つけることができます.自分たちの国内税率を引き上げるならば,本社を税率が低い他の国へ移すことができます.金融取引税も同じです.税のない国で金融取り引きを行うことができます.国際ルールが成立するためには,利害が異なる国々の間に国際協調が求められます.現在,法人税に関しては,経済協力開発機構(OECD)加盟国を含む130超の国・地域が法人税の最低税率は15%を軸に法人課税の新たなルールづくりで最終合意する段階にあり,希望のもてる状態に入ったと言えます.トービン税あるいはその他の金融関連税の成立についても,問題は同様であり,国内法整備と国際協調を平行して行うことが不可欠です.
[1] 宮崎義一 (1992). 複合不況:ポスト・バブルの処方箋を求めて, 中央公論社.
[2] Keynes, J. M. (1936). The General Theory of Employment, Interest and Money, Harcourt Brace, New York, NY.
[3] Tobin, J. (1978). A proposal for international monetary reform, Eastern Economic Journal, vol. 4, issue 3-4, 153-159, (2021年12月4日閲覧)
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:細谷雄三(東北大学名誉教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
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⑧経済に関する質問です。現代資本主義の比較,修正を行い,科学技術(能力)の欠点を考察し,正しい方向へ導くために,このプロジェクトは何を考え,発信するべきかを,各プロジェクトの知見と合わせてまとめていってはどうでしょうか.。
ヨーゼフ・シュンペーター[1]は,歴史上他の経済社会では見られない,資本主義経済に特有の成長の推進力として,大企業の行う創造的破壊と(製品,生産方法,市場,資源,組織の)イノベーションの創出を強調しました.シュンペーターは,しかし,創造的破壊がもたらす自然・社会関係・伝統の破壊効果については批判的ではなく,また,価格競争の役割を評価しないため,寡占競争についても批判的ではありませんでした.イノベーションの負の側面が見えてきた現時点に立つとき,「イノベーションと社会が両立できる安定した経済関係をいかに構築したらよいか」は,このプロジェクトのみならず,社会の構成員一人一人がそれぞれが携わっている立場から考察し発言すべき最重要な課題となっています.
資本制社会には,商業資本,金融資本,産業資本などの資本形態がありますが,共通した経済活動の理念は,等価交換を通じて利益を上げることです.商品取引は前近代の社会において,世界中で立派に根付いていました.ただし商品取引はあくまで共同体の周辺で行われ,主要な経済活動ではありませんでした.商業資本が自分の中に商品生産を取り込むとき産業資本になります.産業資本が社会の支配的な経済様式となったとき資本主義社会が成立します.
資本主義と政治形態としての民主主義の関係を見ると,たとえば鄧小平以降の中国は,政治的には一党独裁であり,土地の私的所有は認めていませんが,市場経済と資本家経営を擁護する国家資本主義です.南米チリのピノチェト軍事独裁政権とシカゴ大学市場主義者の連携に見られるように市場主義は容易に全体主義と連携します.資本主義経済が政治的自由主義や民主主義と結びつく必然性はなく,イギリスなど欧米資本主義諸国は,その経営形態として奴隷労働も法的に可能な外国植民地では採用しました.資本主義の長い歴史をもつアメリカ合衆国でアフリカ系アメリカ人に公民権が認められた(つまり市民として認められた)のは,ようやく1965年のことです.しかもその後も差別思想は残存し続けています.
現代の経済制度は,どの国においても,程度の差はあれ,国家管理と資本家経営およびそれらには属さない非公的・非資本家管理運営の三者が混在した体制となっています.資本主義経済の将来に関して「社会にインパクトあるプロジェクト」はいかに構想すべきかとの質問に回答するためには,コモンズ(commons)という概念が鍵となります.コモンズは,資本形態としては,国や地方自治体には属しません,また私的資本でもありません.それらに先行する人間社会の共有物のあり方です.エリノア・オストロムはコモンズの研究で2009年にノーベル経済学賞を受賞しています.B.M.フリッシュマン[3] は次のようにコモンズを特徴づけています:
「コモンズとは制度化された共同体(コミュニティ)の実践であり,共同体の経営・運営の一形態である.コモンズそれ自体は資源や地域社会,あるいは土地やものではない.それらの取り合わせの制度化である.」
コモンズ研究を展望したオストロムによる著書に[3]があります.また近接する考え方としては,宇沢弘文の社会的共通資本(social overhead capital)[4][5]があり,コモンズより広い観点から考えています.コモンズにしろ社会的共通資本にろ,いかなる資源を対象とするかにより管理運営の方法が異なり,また多くのコモンズそれぞれが自治運営の長い歴史を持っています.多様な問題や困難を抱えていて,コモンズという概念で括れば問題が解決する訳ではありません.特徴は,「国や地方自治体による統治でもなく,私企業の経営でもないこと」にあります.経営の基本は資本家経営である(国は非効率である)という従来の発想を転換する鍵となりえます.
エンクロージャによってコモンズから農民を排除して産業資本のための労働力を生み出したことがイギリス資本主義の発展にとって重要な契機となったことが経済史では強調されますが,エンクロージャを過去の歴史的出来事と捉えるのは正しくありません.現在でも,「人々が集まってコモンズを形成しないように,毎日のように排除が行われ,市場経済へ追い立てることによって資本主義社会が成立している」と認識することが大切です.現在,なぜ忙しいにも関わらず生きがいを感じないかというと,世界が自分の世界ではないからです.植民地主義とは,まさしく,先進資本主義国が低開発諸国において現地民を彼らのコモンズから引き剥がす国家と私的資本の共同作業に他なりません.
民主主義の歴史をもたない国々では,社会主義運動は革命によって体制を転覆することにしばしば成功しますが,革命後指導者たちは,自分たちと路線を異にする勢力を排除し,全体主義の社会を形成します.社会民主主義は,欧米では現在に至るまで,議会政治のなかで有力な政治勢力の一つであり続けています.民主主義がすでに浸透していた西欧においては,社会主義の一定の考え方を導入する許容度があります.民衆の意見が下から積み上がって政治を動かすといった経験の乏しい日本では,社会民主主義を定着させる土壌がありません.資本主義自体は,富と所得が一部の富裕層に偏り,格差社会に向かうことはあっても,それを阻止する内部メカニズムを備えていません.それが決定的な欠陥です.民主主義が機能していて、経済的弱者の声をくみ上げる政治システムが確立していないと資本主義は残酷さをむき出しにします。現代アメリカ資本主義と民主主義の問題点に関しては,スティグリッツ (2020)[5]が批判的に論じています.
アダム・スミスが『国富論』[6]で主張した,分業で各主体がそれぞれ持ち分で最善を尽くせば,(市場での交換を通した)「見えざる手」が組み合わされることによって社会全体が効率的に調和するという思想は,現在に至るまで,社会思想の強力なバックボーンとなっているばかりでなく,自然科学研究においても分業(専門化)による効率化は暗黙の了解となっているようです.研究対象を出来るだけ抽象化して問題を明確化して各自が持ち分で全力を尽くせば,「見えざる手」が全体の調和をもたらし,人類全体として豊かな成果が得られるという思想です.なかでも一番影響を受けた経済学は,市場による予定調和社会を正当化する理論を追求するあまり,社会的現実を見る眼を失ってしまいました.主要な経済理論の一つに一般均衡理論があります.これは見えざる手を見せる試みです.生産者や消費者各自が価格を指標として自分の経済行為を選択すると,社会全員が満足できる均衡価格体系が存在することを証明する理論でありますが,現実性が示されたことはありません.ちなみに,予定調和(harmonie préétablie)はライプニッツが導入した概念です.
「現状の行き詰まりを打破してゆくためために,どうすべきか」という質問は大きな問いかけですが,スミスのパラダイムを超えたパラダイムを発想することが求められています.このプロジェクトにおいても,大学として教育研究の分野間連携に焦点を合わせて,いかに現状を乗り越えられるかを検討するとともに,他プロジェクトの知見に注意を向けて研究連携を進めてゆくことが是非とも必要とされます.一例として農林水産業を挙げることができます.この産業分野は資本主義的生産や市場メカニズムの弱点が露呈する分野であり,そのためしばしば遅れた産業分野と(誤って)見なされてきました.しかし,農林水産業は自然と社会関係と伝統を市場関係から離れて再構築する基点であり,都市集中・地方衰退を逆転するための基点でもあります.市場による調整にまかせることができない主要な分野として,ほかに資源循環,放射線関係分野,インフラストラクチャー、大学の存立があります.
各プロジェクトは,分野連携を可能にする他分野でも用いることのできる頑健な知見の提起が必要とされると考えられます.たとえば,現在,環境学分野で「自然資本」,社会経済学分野で「社会関係資本」という用語が用いられています.経済学では,通常資本と資産を区別しません.この場合,資本という概念の意味を明確にすることが必要されますが,この点,会計学は,従来から,資本とは請求権(貸方)を意味し,資産とは請求権の対象(借方)を意味するという所有権に関連づけて明確な規定を与えています.あるいは所得という概念は普通に日常的に使われていますが,質問⑥の回答に示したように,ヒックスは所得概念を定義するにあたって,経済主体が健全な行動をとるための規範的役割に注目していました.現在は科学技術的に可能であることが,倫理的に許容できることに勝ってしまっていますが,今後は,科学概念が人間社会で負うであろう倫理的意味合いをもっと重要視することが求められます.
[1] ヨーゼフ・シュンペーター著 ; 大野一 訳 (2016). 資本主義,社会主義,民主主義, 日経BP社 (原著初版は1942年).
[2] Frischmann, B.M. (2013). Two enduring lessons from Elinor Ostrom, Journal of Institutional Economics, 9:4, 387-406.
[3] Ostrom, E. (1990). Governing the commons: the evolution of institutions for collective action, Cambridge University Press, Cambridge.
[4] 宇沢弘文 (2000). 社会的共通資本,岩波書店.
[5] Uzawa, H. (1974). Optimal management of social overhead capital, Chapter 1, 3-17, in The Management of Water Quality and the Environment, edited by J. Rothenberg and I.G. Heggie, Palgrave Mcmillan.
[5] スティグリッツ, J.E. 著, 山田美明 訳 (2020). プログレッシブ キャピタリズム,東洋新報社.
[6] アダム・スミス [著] ; 高哲男訳 (2020). 国富論 : 国民の富の性質と原因に関する研究, 講談社学術文庫, 原著初版1773年.
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:細谷雄三(東北大学名誉教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
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⑨里山維持や地方のインフラ維持に関する質問です。経済優先・功利主義以外の価値判断が必要となる社会課題の例として,里山維持や地方のインフラ維持の課題があると考えてよろしいでしょうか。
農業とインフラは,その他の産業と比較して「地域との密着性」の高さという,「経済性以外の価値判断に繋がる要因を持っている領域」であると理解しています。であるが故に,農業やインフラの場合には,都市や地方,里山の妙味のような要素が,豊かさや幸せ感(well-being)の評価指標に関係してくるのではないかと思います。
すなわち,インフラと農はともに地域性があり,「各地域で独自の答えを導き出し,それを実践することで,各地域で豊かな暮らしを創出していく」ことが求められています。ただ,農作物もインフラも,その地域の人々が日常的に恩恵を受けているため,それが当たり前になっており,失われたり不足(劣化)したりすることで初めてそれらの恩恵に気づく,という面も似ているかもしれません。
農業においては,どこで作っても同じ味,同じカタチ,同じ機能を有するユニバーサルなものではなく,「その場」だからこその個性や風合い,長年の適合による独特のカスタマイズあるいは進化を通じて,それぞれ独自性(多様性)を生み出し,それが人間の感性を豊かにし,作業に伴う面倒臭さすら,地域特有の「作法」という形で,日々の暮らしを彩り良くしてくれます。
インフラにも類似点があり,工場では製造されず,都会だろうが田舎だろうが「その場」に相応しい材料や構造で建造され,長年にわたって「その場」に居続け「その場」の気候風土に晒され老朽化していきます。ちなみに,コンクリートは,基本的に建設現場から限られたエリアからしか調達しませんし,その距離感で砂利や砂も調達しますので,地場密着性は特に高いと言えます。道路などは「その場」以外の不特定多数が利用しますが,基本的には「その場」の人々の暮らしを支えるために建造されるので,「その場」の皆さんと最も密着していると思います。
したがって,「その場」にあるインフラの重要性,必要性は,その地域の人々が最もよく理解していることになり,インフラのメンテナンスも,その場その場の感覚を持った方々が担うべきと言えます。このメカニズムをうまく利用すれば,インフラおよびそのメンテナンスを地場産業として定着させることで,地方創生のトリガーになり得るのではないかと考えています。これが,社会にインパクトある研究C2「暮らしを豊かにする創未来インフラの構築~「造る」から「活かす」へ,そして「生きる」へ~」の根底にある理念です。
※ 例えて言うなら,仙台に住む私たちの日々の暮らしにおいては,仙台の道路(雑煮)は,日々の生活に密接に関係しますが,鹿児島の道路(雑煮)は日常的にはほとんど関係ない,ということです。どこにでもあるインフラ(雑煮)は,やはり「その場」の肌感覚を活かして維持されるべきではないかと考えます。その一方で,時代や社会の要請に合わせて古くなってしまったインフラ(旧来の農の考え方)を代謝させ,創未来インフラ(animal welfareを重視した新しい農など)に更新していくべきといった課題が,普遍的な要件として共通して存在し,これらの課題は,各地域で独自の答えを導き出し,それを実践することで,各地域で豊かな暮らしを創出しましょう,という解決シナリオです。
やや強引ですが,※の段落の文章で「インフラ」と「農(雑煮)」を混ぜてみましたが,それほど違和感はないと思います。ここまで地域に密着した「インフラ」と「農」の特殊性に類似する領域が他にあるでしょうか。昔であれば,地域ごとに家屋の屋根は異なっていましたが,食(農)住(インフラ)とするなら,あとは衣かもしれません。
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:小倉振一郎(東北大学大学院農学研究科教授)
久田 真(東北大学大学院工学研究科教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
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⑩里山維持や地方のインフラ維持に関する質問です。功利主義に基づいて食糧の確保だけを考えれば,里山の維持は不要となり,食糧確保の手段として,田んぼを潰し再生可能エネルギーを使って季節や自然の影響を受けずに食糧生産ができる,すなわち,見渡す限りに食糧工場が建っている景色が想定できます。この光景は,果たして人類の望む選択肢なのでしょうか。この疑問は,功利主義に依らず「里山を守る」ことの本質的な意義を考えることと表裏一体と考えられないでしょうか。
日本では多くの国民が都市部に集中して生活しているため,自然環境,すなわち大気,大地,水(河川や地下水等),海などから私たちがいかに多くの恵みをいただいているかを実感できず,私たちの日常の暮らしと環境とのつながりを直接感じられなくなっているように思います。
「里山(農山漁村)が私たちに与える恵み」は,農作物や畜産物,水産物,林産物はもちろん,良好な景観や,水や大気などの環境の維持や気候調節など,物として直接みえる恩恵だけでなく,間接的で直接見えない恩恵も含まれます。1999年に定められた「食料・農業・農村基本法」の中でも,「農業の多面的機能」が明記され,里山で農業を持続的に営むことで発揮される多面的機能(環境保全や災害防止,文化伝統の継承等)が注目されるようになりました。世界的にも,2005年に国連が「ミレニアム生態系評価」の中で「生態系サービス」を「基盤,供給,文化,調整」の4つのサービスに類別化し,生態系の保全の意義を示しました。
里山の役割と機能の価値をわかりやすく評価する1つの方法として,「経済的価値に置き換える」という方法があります。例えば,田んぼが日本から無くなった場合に想定される災害の規模から,同程度の水を貯える「ダム」を造るとどのくらいの予算が必要か,といった具合です。この方法では,金銭感覚として生態系機能の重要性を理解することはできますが,予算額の試算結果はその時の経済状況等によって変化してしまうことや,すべての機能を金額に置き換えることができない側面もあるため,限定的な効果しか期待できません。
東日本大震災の復興事業では,10年間でおおむねハード面での復興が完了したと受け止められています。公共性の高い事業では,できる限り多くの住民が恩恵を受けられるような対応が求められるため,功利主義=最大多数の最大幸福の点の対応は理解できます。一方,SDGsで目標としている「誰一人取り残さない」をいかに保証するかが今後課題になってくるように思います。同時に,里山を守ることは単にそこで生活している人々だけを守るということだけではなく,「里山を守ることが国全体または地域全体にとって大切である」ということを広く理解してもらう必要があります。都市部でも農山漁村でも,日本のどこで生活していても,「自分らしく,高福祉の暮らしができる」社会を創る取り組みが必要と思います。
一方,功利主義に基づけば,維持が不要になるのは里山だけでなく,利用者が少なく,維持費ばかりがかさむ地方のインフラも不要と考えざるを得なくなります。大量生産と大量消費による功利主義を志向する立場からすれば,地域密着性や多様性に価値を見出すような考え方は,費用対効果の観点からもむしろ馴染まないでしょうし,国際化が進展し,グローバルスタンダートが浸透しつつある今日においては,ここで取り上げている地域性や多様性はむしろ煩わしいのではないかという推論もあるでしょう。
「新しい価値の創出」は,今後の我が国の動向を左右する上で極めて重要な視点ですが,それは「新しさ」という,今までにない何かを生み出すことに力点が置かれています。しかし,その結果,私たちにとって本質的に必要ではないものまでも生み出しているという点にも注意を払う必要があります。むしろ,私たちがこれまで辿ってきた長い歴史の中で,「本当は重要なもの」であったにもかかわらず,時代の流れの中で駆逐され葬られてしまった,すなわち,価値として認められなかった「本当は重要なもの」をもう一度取り戻すというアクションも「新しい価値」の創出に繋がると考えます。このことはまさに「温故知新」でしょうし,こういう考え方の重要性自体が,故事成語としてすでに古の先輩が示されている訳で,その代表的なものの一つが「里山」ではないかと思います。
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:久田 真(東北大学大学院工学研究科教授)
小倉振一郎(東北大学大学院農学研究科教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
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⑪里山維持や地方のインフラ維持に関する質問です。いかに財政が苦しくても,五輪のために東京2020のインフラを整備した背景を良く考える必要があります。経済優先・功利主義なのでしょうか。それに対し「地方のインフラを維持すること」の意義はどこにおくことができるかを考える必要があります。
公共事業として整備されるインフラに関しては,これまでは,基本的には費用対効果という視点で評価を受けなかったため,だからこそ公共(パブリックな)事業として税金が投入される仕組みになっていました。近年では,いくら公共財といえども費用対効果の低い整備は敬遠されるようになりましたが,その一方で,公共施設の整備においても「民間投資」を利用することで大規模に進められるようになっています。首都圏をはじめとする都市部での駅前再開発といった事業の多くは,このような民間投資を利用してなされますが,民間がお金をかけるということは,そこに利益を見出せるかどうかが重要な判断の基準になっていると思います。そういう意味では,利益の見込めない「地方の開発」にお金をかけることは,もはやリスクとすら見積もられる可能性があります。それよりも,より大きな利益が期待できる大都市圏には,自ずとお金が集まってきます。芸能界のように,同じ宣伝費を投入するなら,人口集積地域をターゲットとしてデビューさせた方が,大きな収益が見込めることに類似しています。
東京2020でのお金の使い方については,民間だけでなく行政ですら,経済優先の判断をしていると推察されます。これまで,東京一極集中により,長年にわたって,他の地域とは比較にならないほどの投資が行われました。他の地域よりも10倍の投資を10年続ければ合計で100倍の金額の差になり,その集積が東京の「価値」になりました。集団就職による人為的なヒトの集積だけでなく,優先的な投資によるモノの集積と,これらの資源を当てにして新たなカネもどんどん集積しました。これだけ集中してヒトモノカネを長く投入し続けたため,これまでの日本は,国として発展はしましたが「均衡ある発展」を成し遂げられなかったのは当たり前で,「地方との格差」が広がり,今後地方が衰退するのは当然の帰結でしょう。
更に,近年の少子化,担い手不足の中で,限られた財源の使いどころとして,これまで以上に功利を重視すれば,それは我が国の人口の約半分を占める首都圏,近畿圏,中京圏を核とした大都市圏でしかあり得ないと考える人(投資家)は多いでしょう。一方,国際的な視座に立つと,世界が日本に投資する「旨味」が見出せなくなったとき,私たちの国はどうなっていくのでしょう。その「旨味」の一部を,私たちが気づいていない「里山」をはじめとする日本の「らしさ」に依るとすれば,私たちは自らの手で,この国の「価値」を台無しにしてはいるのではないでしょうか。
単純な仕組みの理解ですが,「大都市部における経済活動の多くは,地方から供給される電力エネルギーや農作物,工業製品と,その地方部と大都市部を繋ぐ物流(ロジスティックス)などの仕組みによって成り立っています」。すなわち,今までどおり大都市部にのみ投資が進み,地方部の衰退を看過していると,地方部と大都市部を繋ぐメカニズムが破綻し,その結果,大都市部の発展も望めないことになることは想像するに難くありません。
このような仕組みは,大都市部と国内の地方部とではなく,大都市部と海外との貿易だけで成立するのかという問いですが,私は,無理であり,しかも国のあり方として,それだけではまずいと思っています。海外との貿易にのみ依存すれば,国内の地方部は要らなくなり,その衰退は加速し,食料自給率も回復せず,海外に売れるものも,究極はアニメとかゲームだけになり,コロナ禍や戦争,大災害など,いざとなったとき自分たちの足で立てなくなり,世界の中で孤立し,誰にも相手にされなくなってしまい,世界が日本に投資する「旨味」が見い出せなくなるでしょう。このように国際社会での日本の存在感がなくなったとき,わが国を慈悲深く救ってくれる国は地球上にはもはや存在しないでしょう。遠回りしましたが,「国家が健全に成立し,レジリエントに存続するためには,大都市部と地方部との均衡ある健全なメカニズムの構築・維持が絶対条件であり,大都市部と地方部をネットワークで繋ぐという意味でも,インフラは永続的に機能するようマネージメントしていくことが極めて重要」であると考えます。
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:久田 真(東北大学大学院工学研究科教授)
小倉振一郎(東北大学大学院農学研究科教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
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⑫里山維持や地方のインフラ維持に関する質問です。アニマルウェルフェアを進めるのはどういう理由によりますか。人によっては,動物の気分がいいと肉が美味しく高く売れるという,経済優先・人間のエゴの考えもあるのではないのでしょうか。アニマルウェルフェアの純粋な意義を皆に共有して頂く必要はないでしょうか。
動物が生まれながらにして持っている「正常行動」は,集約型の家畜生産システムでは軽視されてきており,その動物が持つ本来の正常行動を十分に発現することができません。それは構造上の問題で,倫理的な問題です。ウシ,ブタ,ニワトリなどの動物は私たち人間と同様に複雑な情動(心)を持ち,意識ある生き物であり,人と動物には多くの共通点(自然界の中での連続性)があります。アニマルウェルフェアの最も革新的発想は,この「生まれながらにして持っている」正常行動発現に注目しています。アニマルウェルフェアの基本原則である「5つの自由」の中で,1. 飢えや渇きからの自由,2. 病気やケガからの自由,3. 恐怖や苦悩からの自由,および4. 不快からの自由は,功利主義的倫理観ですが,5. 正常行動を発現する自由については「卓越主義」すなわち「その人(動物)らしく」という考え方です。この卓越主義の考え方は,現在の「個性を大切にする」ことにつながっていると思います。
科学の進歩発展に伴い,動物のみならず自然環境に対しても我々人間と同様な存在として捉えることができるようになりました(適切に付き合えば互いに元気だが,自然も弱ったり死んでしまったりするということ)。それにより,「人-動物-自然の連続性・共通性」が認識されるようになり,そこからアニマルウェルフェアや自然保護の思想が生まれたと言われています。身分差別の撤廃,男女平等,奴隷解放,ジェンダーマイノリティへの配慮,障がい者福祉なども含め,すべて根本の思想は同じです。このことは,SDGsが掲げる「誰一人取り残さない」社会の構築に通じます。21世紀に入り,人々の意識が高まったことで,ようやくこうした議論が行われるようになってきたと言えます。
しかし一方で,「経済優先・人間のエゴの考え」の中でアニマルウェルフェアが使われていることも事実です。すなわち,アニマルウェルフェアを活用した畜産物のブランド化です。もともとイギリスをはじめとするEU諸国は,自分たちの畜産物を世界に輸出するため,EUで盛んに進められてきたアニマルウェルフェアを国際的に普及して標準化したという見方があります。かんぐった考えかもしれませんが,「EUではアニマルウェルフェアの基準を作り,それを遵守しているから動物を食べてもよいのだ」と正当化しているように捉えることもできます。人と動物との関係および動物に対する人の捉え方は,その国・地域の文化,宗教,歴史等によって大きく異なるため,EUで定めたアニマルウェルフェアの基準がすべて日本の畜産業に当てはまる訳ではありません。
なお,「アニマルウェルフェア(=動物がストレス無く幸福に生きる)の遵守」と,「動物の命をいただく」(←→動物が生きる権利)とはまったく別の概念です。また,「動物愛護」もアニマルウェルフェアとは異なり,「人が動物の命を大切にするための心を涵養する(情操教育)」の観点から使われる言葉です。このように,人と動物の関係について様々な捉え方がありますので,それらを正しく理解する必要があります。
東北大学工学研究科は,2019年に100周年を迎えましたが,次の100年をビジョンとして確立することを目的として「トランジションデザイン」の策定作業を進めています。この検討作業の過程で「将来の地球における人間のあるべき立ち位置」についての議論になりましたが,その時に「少なくとも,地球は人間だけのものではないことを深く理解し,他の生物との共存を前提とした(遠慮がちな)ポジショニング」という考えに辿り着きました。このような視座に立てば,アニマルウェルフェアには「動物たちだって人間に食べられるためだけに生まれてきたのではないし,人間の方は,アニマルウェルフェアをはじめとする同じ惑星に存在するあらゆる種と共にあるということの意味をもっと深く理解する必要がある」という考えが潜んでいると受け止めることができます。古より,「八百万(やおよろず)の神々」として,私たちは,このような西洋とは異なる考え方に既に辿り着いていた訳ですが,まさに「温故知新」そのものではないかと思います。
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:小倉振一郎(東北大学大学院農学研究科教授)
久田 真(東北大学大学院工学研究科教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
準備中です。
⑬里山維持や地方のインフラ維持に関する質問です。功利主義を突き詰めれば「食事はすべて点滴」となるのではないでしょうか。それが人間の望む世界なのでしょうか。こうした極端な例から,「人間が失ってはいけないもの・豊かさ」が明確にはならないでしょうか。
人間が「生きる」ということは,やはり点滴による「生命維持」とは本質的に違うと思いたいところです。「生きる」には「より良く」や「心豊かに」という修飾が馴染みますが,「生命維持」には彩がなく,一元的で,「より良く」や「心豊かに」が馴染みません。仮に,「より良い生命維持」は,点滴の適切な成分組成や濃度によってもたらされると保障されていても,少しも嬉しいとは感じません。とある映画のとあるシーンですが,未来社会において,人間に期待されるのは知恵でも知識でもなく,電力を確保するのに人間が放つ熱エネルギーだけであり,AIが私たちの生そのものをコントロールするといった場面がありましたが,こんな未来はご免被りたい,と考えたことがあります。
息を止める30秒くらい前になって「あぁ,面白かった~」と,生を全うするためには,喜怒哀楽,生老病死との葛藤,感情の浮き沈みなど,心の豊かさが不可欠だと思います。何をもって全うしたと言えるか,は,それこそ人それぞれですが,少なくとも,私はアイツより良い人生だったといって「一喜」し,アイツがいたから楽しい人生が送れなかったといって「一憂」するような相対評価で生きるのではなく,自身の中に絶対評価軸を育てることが,包摂性を獲得する上で重要ではないかと思います。偉大な哲学者である西田幾多郎が「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾行くなり」という詞を残していますが,確かにそうだと思います。
私は,「心豊かな」里山のあり方を考えるためには,逆に「心の貧困」について考える必要があるだろう,と考えてきました。すなわち,心の貧困とはどのような状況なのか,それがなぜ起こるのか,その改善・解決に里山がどのように貢献できるのか,についてです。アニマルウェルフェアの項目で説明したように,人や動物の幸せを考える上で,「身体の健康」だけでなく「心の健康」(負の情動の軽減と正の情動の促進)はとても重要です。心と体は密接に影響しあっており,さらに人間は社会性のある生きものであるため,人間総体としての幸福な暮らし・社会のあり方を考える上で,個々の人間と人間総体の「心の健康」は重要な問題だと思います。心の面から里山の役割と機能を見出すことは意義があると考えます。
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:久田 真(東北大学大学院工学研究科教授)
小倉振一郎(東北大学大学院農学研究科教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
準備中です。
⑭里山維持や地方のインフラ維持に関する質問です。「人間は何のために生きるのかを,一生懸命考えること」「労働は,単なる金儲け以上に,貴い」ということを皆が共有できるでしょうか。またそのためにはどうしたらよいでしょうか。これらの問題を,里山や地方のインフラ維持の例から考えることができないでしょうか。
(専門外ですが)カントも主著「純粋理性批判」の中で,自身の存在や何のために生きるかを論じた挙句に「より良く生きるために考え抜くこと」の重要性に到達しています[1]。こういった境地に達し得ること,こういった思索を続けられること,その先に何かを見出し,それをより良い世界の構築や平和の実現に貢献することを,職務,特権として享受できるのが大学人であると思いますし,少しずつでも,このような議論を突き詰めあえる「仲間」を増やして,真の世界平和の達成に一歩でも近付ける貢献ができる大学であって欲しいと願っています。
生物は長い年月をかけて進化してきたといわれていますが,その進化は適応度(=生物がどれだけ多くの子孫を次世代に残せるかの尺度。1個体当りの繁殖可能な子供の数)を高める方向で進んできたといわれています。(私見ですが)私たち人類はまさに全地球上で生活し,様々な環境に適応して繁栄を極めています。しかし同時に,利用可能な資源が限られ,かつ環境の劣化が急速に進行していることから,「人間=一生物種としてどのように解決していくべきか」という究極の問いが突きつけられているように思います。一方,人間の生きる意味を「心」すなわち私たちの意識に置いた場合,「幸福になること」こそ生きる意味ではないかと思います。
こうした点から労働について考えてみます。労働およびその対価として得られる物や金銭は,自分の体を維持し子孫を次世代に残すためのものといえますが,同時に,労働によって他者を助けて支えること,すなわち誰かの役に立つことで幸福感を得るという面もあると思います。人間を含む動物は「利他行動」(=他の個体などに対しておこなう,自己の損失を顧みずに他者の利益を図るような行動)をとることが知られています。このように,私たちが生きていく上で,労働とは自分自身が生きるための糧を得るだけでなく,誰かの役に立つことで生きる喜びや生きがいを得られるため,生活の基本ではないかと思います。
里山とインフラは,いずれも公共性を有しているため,自分の労働で誰かの役に立つという生きがいを得られるように思います。同時に,持続的な発展のためには,里山とインフラそれぞれに関する労働を通じて労働者が生きがいを感じられるような働き方や社会のあり方を考える必要があると思います。
[1] たとえば,NHK「100分で名著」
質問:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
回答:久田 真(東北大学大学院工学研究科教授)
小倉振一郎(東北大学大学院農学研究科教授)
監修:金井 浩(東北大学大学院工学研究科教授)
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